佐渡・間峰山|なんの興も無い山が、おもしろかった。

「佐渡は、生活しています。一言にして語ればそれだ。なんの興も無い。」と太宰治は書いた。

なんの興も無い、である。

ずいぶんな言い方だと思う。でも太宰だからしょうがない。太宰はそういう人だ。

その日、私は母と山に登った。間峰山という山で、母が「ほら、校歌にも出てきてたじゃん」と言った。そういえばそうだった。卒業してからでも口ずさめる校歌に、間峰山は登場する。けれど登ったことがなかった。人生とはそういうものだ。

登山口の場所は母の勤め先の人から聞いた。「林道を4キロ進んで、池に当たったら進みすぎだから戻る」というだけの情報で、それ以上は何もない。なんとおおらかな案内だろうと思った。池に当たったら進みすぎだから戻る、というのがとくにいい。当たる前に引き返すとか、池を無視して進むとかいう選択肢は、ないのである。

車で林道に入ったら、なんとなく怖かった。コンクリートの道と泥むき出しの道が交互に出てきて、登山口に辿り着く前に「タイヤはまったらどうすんの」という気持ちがずっとあった。でも引き返さなかった。なぜかというと、引き返すタイミングを見失ったからだ。

途中に祠があって、新しい花が供えてあった。

誰かがここに来ている、ということが、なんとなくうれしかった。

「間峰登山口」という看板は茶色くて、もうちょっとで見逃すところだった。茶色にする必要はあったのだろうか。でも茶色だった。

登山道は、道ではなかった。

草がぼうぼうに生えていて、獣道といえば聞こえはいいが、要するに「なんとなくここを歩く感じ」という道だった。頼りになるのは蛍光ピンクのテープだけで、私たちはそれを探しながら進んだ。

いつのまにか、母との会話が「ピンクある?」「ピンク、あそこ!」だけになっていた。ピンク、ピンク、と言い続けていたら、それがなんの色なのか分からなくなってきた。言葉というのは繰り返すとおかしくなる。

私の五感が渋滞しているのもおもしろかった。

漢方みたいな匂いの場所があって、次はヒノキっぽくなって、そのうちじめじめした菌類っぽい匂いになった。

9時をすぎたころ、山に日が差してきて、蝉みたいな声とカエルの声が急にうるさくなったりした。蝉は今の季節に鳴くのだろうか、と思ったが、蝉はそういうことを気にしない。見習いたいと思った。

「もうすぐ頂上だ」と何度か思った。

そのたびに違った。

3回目くらいで、「期待するのをやめよう」と悟った。人生においても同じようなことはよくある。

木がトンネルみたいになっている場所があって、くぐったら石楠花がたくさん咲いていた。

暗いところから明るいところに出て、花が咲いている。そういう場面は、漫画だと感動するところだ。実際に見てもやっぱりよかった。漫画はよくできている。

頂上では、空がひらけた。

海と空の色が一緒になって、どこが境目か分からなかった。佐渡の海はそういうことをする。

帰り道、先頭を少し歩いてみると、視野が狭くなることに気づいた。

目の前の草をかき分けて、足元を確認して、そうするとピンクを見失って、気づいたら違う道を下りかけていた。一度ぬかるみに足を取られそうになって、「ああ、広く見ないといけないんだな」と思った。山で学ぶことは、だいたい会社でも家庭でも使える。

下りの道で母が転んだ。木の棒に足を取られて、2ステップ踏んで、でも転んだ。

転ぶのを見るのはおもしろい、と思った。自分が転んでみると分かるのだが、転ぶときってわりと「転ぶことを受け入れる」感じになる。抵抗するより転んだほうがいいと体が判断するのだ。体は正直だ。

下りは気づいたら1時間以上歩いていた。集中していたのだ。ピンクを探すのに。匂いをかぐのに。転ばないように、でも転んでもいいように。

瞑想に近いけれど、体がちゃんとそこにある感じの集中だった。

下山して車に乗ったら、あくびが止まらなかった。

なんの興も無い、と太宰は言った。

でも私が山で感じていたのは、その「なんの興も無い」ことのひとつひとつだったと思う。ピンクを探すこと。匂いが変わること。母が転ぶこと。それは特別なことではない。ただの生活だ。

太宰がないと言っていた興を、私はわりと楽しんで佐渡で見つけた。

太宰には悪いが、なかなかいい時間だった。

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