「できないこと」を証明しなければ、支援は始まらない
療育をしていると、子どもが「できるようになる」瞬間がある。それを喜びながらも、「できないこと」を探してしまう支援者としての自分がいた。
「できないこと」がサービスを受けることになる資格だからだ。それは然るべき公共サービスなのかもしれない。
療育支援を受けるためには、受給者証が必要だ。受給者証を得るためには、「できないこと」を証明しなければならない。診断書、行動観察、アセスメント結果。書類の束が、一人の子どもの「できなさ」を可視化していく。
しかし書類は、保育園・教室の空気を変えない。保育園・教室の空気は、特性を読まない。
障害をめぐる見方には、大きく三つのモデルがある。
医学的モデルは「問題は本人にある」とし、個人への訓練と治療を中心に据える。社会的モデルは「問題は社会との関係にある」とし、環境の障壁を除去することを目指す。そして関係論的モデルはShakespeare(2006)が『Disability Rights and Wrongs』で詳述したように、個人の機能特性と、社会の態度・環境との相互作用として障害を捉える。
平たく言えば、「できないのは本人のせいか、社会のせいか、それとも両方の噛み合わせか」という問いだ。だからこそ、ややこしい。
2012年の児童福祉法改正が目指したのは、この三つを横断する支援だった。「訓練・治療・保護」から「発達・成長・参加」へ。理念としては、前進だった。
しかし制度の根幹には、今も医学的モデルが残っている。
これを「悪意の産物」と呼ぶのは、簡単だ。しかし実態は、もう少し複雑だ。
行政は税金を使うために、対象者を特定しなければならない。支援の必要性を客観的に示すには、「できないこと」の記述が最も説明しやすい。それは制度設計として、一定の合理性を持っている。
問題は、その合理性が副作用を生むことだ。
Hullら(2017)は、自閉スペクトラム症(ASD)の当事者が「普通に見えるよう」振る舞う行為カモフラージュ(camouflaging)が、自己評価の低下や燃え尽きと強く関連することを示した。平たく言えば、「できているように見せる努力」が、内側をすり減らすということだ。
支援を受けるために「できないこと」を示し続けた子どもは、自分をどう見るようになるだろうか。
「できないこと」が、自分の輪郭になっていく。支援が、その子の自己像を静かに塗り替えていく。誰の悪意でもない。
では、何を「成功」と呼ぶべきなのか。
哲学者のAmartya Senは『Development as Freedom』(1999)で、「機能達成(functioning)」よりも「潜在能力(capability)」を問うべきだと主張した。「何ができるか」ではなく、「どのような人生を選べるか」。Nussbaum(2011)はそれをさらに具体化し、遊び、感情、政治参加まで含む人間的ケイパビリティのリストを提示した。
平たく言えば、「タスクをこなせたかどうか」より「その子がその子として存在できているかどうか」を問う、ということだ。
この視点に立つと、見えるものが変わる。子どもの能力向上だけを追っていた目が、地域社会の学習と変化へと向く。成功の定義が「標準への適応」から「社会側の多様性受容力の蓄積」へと移る。
評価の軸を変えることは、何を「価値ある人生」と呼ぶかを問い直すことなのかもしれない。
引用文献
Shakespeare, T. (2006). Disability Rights and Wrongs. Routledge.
Hull, L., Petrides, K. V., Allison, C., Smith, P., Baron-Cohen, S., Lai, M. C., & Mandy, W. (2017). “Putting on My Best Normal”: Social Camouflaging in Adults with Autism Spectrum Conditions. Journal of Autism and Developmental Disorders, 47(8), 2519–2534.
Sen, A. (1999). Development as Freedom. Oxford University Press.
Nussbaum, M. C. (2011). Creating Capabilities: The Human Development Approach. Harvard University Press.