善意は、ときにバイアスになる
療育に携わってから、「インクルーシブ教育」という言葉を聞くたびに、少し首をかしげるようになった。理想は正しい。ただ、現実のたたずまいが、まだ追いついていない。
ある高校生のAくんの話から始めよう。インクルーシブ教育を掲げる学校に通っているその子は、毎朝「普通」を着て登校している。「普通を着る」というのは私の造語で、英語では「カモフラージュ(camouflaging)」と言う。Laiら(2017)の研究によれば、自閉スペクトラム症の当事者、特に女性の多くが、診断が数年単位で遅れるほど巧みに自らの特性を隠しており、その慢性的な努力がメンタルヘルスの悪化に直結することが示されている。Hullら(2017)はこれを「ベストな普通を演じること(putting on my best normal)」と表現し、短期的な社会適応と引き換えに長期的なメンタルヘルスのコストが積み重なると結論づけている。
平たく言えば、頑張って「普通」を演じ続けると、静かに壊れていく。
その子が疲れているのは、頑張っていないからではない。頑張りすぎているからだ。
制度の上では、Aくんは守られている。評価には特例があり、受給者証にも配慮が記されている。しかし受給者証は、教室の空気を変えない。教室の空気は、特性を読まない。
「これは誰かが悪いのか」という問いに、正直に言えば私は答えを持っていない。正確には悪いとも言えるし、悪くないとも言える。その曖昧さの中に、問題の本質がある。
構造を、少し離れたところから見てみる。

左側には、家庭がある。親は子どもを愛している。と同時に、社会からの「ちゃんと育てているか」という問いを内面化している。社会学者の Arlie Hochschild(1983)が「感情労働(emotional labor)」と名づけた現象は、医療や福祉の現場の話としてよく語られるが、保護者もまた、見えない感情労働を日々引き受けている。「普通でいてほしい」という気持ちは、愛情の欠如ではなく、社会圧力の内面化だ。その二つは、地続きになっている。
右側には、学校がある。インクルーシブという理念を掲げながら、実態は「同じ場所にいること」だけが目的化している。物理的な同席は達成された。しかし内面的な疎外感は、そのまま残っている。ユネスコが 1994 年のサラマンカ声明で提唱したインクルージョンの本来の理念「システムが子どもに合わせる」という発想は、日本の多くの教育現場で、静かに、しかし確実に逆転している。子どもが、システムに合わせている。
そして中心に、子どもがいる。左からは「普通でいてほしい」という圧力が、右からは「特性は隠すもの」という空気が、静かに、しかし継続的にその子に向かっている。どちらも悪意ではない。どちらも、ある意味では愛情や配慮から来ている。だからこそ、ややこしい。
善意は、ときにバイアスになる。
「この子には安定した環境が必要だ」「普通の学校に通えているのだから大丈夫だ」こうした解釈のフィルターは、その子の輪郭を少しずつ溶かす。見えていないのではなく、見えないようになっている。この違いは小さいようで、支援の設計においては決定的だ。
発達心理学者の Damian Milton(2012)は「ダブル共感問題(double empathy problem)」として、自閉スペクトラム症者とそうでない人々の間には「相互理解の非対称性」があることを指摘した。つまり、わかり合えない責任は、どちらか一方だけにあるわけではない。それでも現場では、しばしば当事者の側にだけ「スキルの不足」が見出される。問題の所在が、ずれている。
「なんか辛い」という言葉は、訴えにならない。名前のない苦しさは、制度に届かない。届かないから、構造は変わらない。その子も、親も、言葉にならない感覚だけを抱えたまま、日々をやり過ごしていく。
支援は、誰のための「適応」を目指しているのか。
子どもが社会に適応することが目標なのか。それとも、その子が自分らしく存在できる文脈をつくることが目標なのか。この二つは、似ているようで全然違う。前者は子どもを変えようとし、後者は環境を変えようとする。現場では、しばしば混同される。善意のまま、混同される。
インクルーシブという看板を掲げた学校で、毎朝「普通」を着て登校するAくんがいる。その子の疲れに、まだ名前がついていない。
見えていないものを見ることから、始めなければならない。それだけは、言える。
引用文献
UNESCO (1994). The Salamanca Statement and Framework for Action on Special Needs Education. UNESCO.
Lai, M. C., et al. (2017). Quantifying and exploring camouflaging in men and women with autism. Autism, 21(6), 690–702.
Hull, L., et al. (2017). “Putting on my best normal”: Social camouflaging in adults with autism spectrum conditions. Journal of Autism and Developmental Disorders, 47(8), 2519–2534.
Milton, D. E. M. (2012). On the ontological status of autism: The ‘double empathy problem’. Disability & Society, 27(6), 883–887.
Hochschild, A. R. (1983). The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling. University of California Press.